宮 崎県可愛岳(えのだけ728m)で西郷隆盛の足跡をたどる

九州百名山地図帳(山と渓谷社)No75

①2016 年3月4日(1回目)へ  ②2018年11月14日(2回目)へ

2016年3月4日 ・・・  西南の役最後の戦いとなった延 岡・和田越しの決戦に敗れた薩摩軍はこの地で軍を解散。
                  残った600人余りは可愛岳の包囲網を突破して山を越え、鹿児島へ逃げ帰ったという。
                  その道をたどって可愛岳へ登ってみた。


 可愛岳南登山口に立つ説明板。この登山道を登り、尾根筋に陣をはっていた政府軍を強襲し、包囲網を突破したらしい。

「西郷隆盛宿陣跡資料館」駐車場9:00―ザレの頭10:10―尾根の分岐11: 00―のぞき11:20―可愛岳山頂12:00昼食12:25
―分岐12:50―烏帽子岳13:10―林道出会い13:30―駐車場14:10


 

「西郷隆盛宿陣跡資料館」の全景。手前の駐車場は広い がトイレはないので、すぐ北の道の駅を利用する。資料館は下山後に見学。 駐車場から道標に従って南登山口へ向かう。途中には桐 野利明の宿舎となった民家もある。登山口に立つ看板。 途中はヒノキ等の植林帯とツバキなどの照葉樹林とが混 在する。西郷隆盛はこの道を輿に乗って登ったらしい。



1時間ほどで「ザレの頭」に着く。ここからは可愛岳本 体の稜線に取り付くため傾斜が急にきつくなる。奥には山頂が見える。 途中に水場がある。このすぐ上には炭焼き窯の跡もあ る。 急な崖にはロープが設置されており不安はないが、堆積 した落ち葉は滑りやすい。この上あたりから花崗岩へと岩質が変わってくる。



稜線に出て北コースと合流した後、左側にルートを取る と「のぞき」に出る。修験者が逆さ吊りになる修験の場だとか。ロープの先は70mの絶壁。 山頂の直前の稜線上に「鉾岩」の表記がある。岩の形か らこの岩だと考えたが、地図では北側の斜面途中に記載されており、確証はない。 山頂は四方に見晴らしがきいて気持ちがいい。南西方向 に行縢山、北西方向に大崩山群が広がり壮大である。

山頂から北コースをたどり稜線上の烏帽子岳に着く。 南側には、登山口のある俵野の集落あたりが足元に望め る。 コース沿いにはストーンサークルやメンヒル等の巨石群 がある。この手の史跡は本当に信仰の対象となったのだろうか私には疑問に思える。
下山途中で見たヒノキの植林地。緑の低木が地面を覆い 植林地なのに美しいと感じた場所だ。 この季節にしては珍しい花。葉っぱが痛んでいるのが残 念。どうやら「コショウノキ」という低木ではないかと思われる。 この山の上部は花崗岩に覆われているが、下部は砂岩状 のものや赤土に覆われており、登山道は雨に洗われ深い溝になった部分も多い。
ニョロの季節や雨の季節には通りたくない。

 山そのものはこの辺りの他の山同様に花崗岩に覆われており、さほど特徴のある山ではない。平凡な山である。
しかしながら登山後に、麓の資料館で西郷隆盛の敗走経路や地元に残る言い伝えなどを聞き、それを実際に歩いてきた山道の情景に重ねてることでこの山の面白 さが増してきた。
それにしても、この可愛岳を越えて祝子川渓谷へ下り、大崩山塊を越えて鹿川渓谷へ、さらに高千穂へ、そこから南下して鹿児島まで半月で帰り着いたらしい。
途中で何度か官軍にも遭遇したらしい。食料も不足していたらしい。西郷隆盛を乗せた輿を担いで山道を上り下りした人たちの苦労が実に悲しい。

 この山のもう一つの面白味は地名である。山の名前自体が「可愛岳」と書いて「えのだけ」と読むらしい。資料館の方によるとこの読み方は古文書(日本書 紀?)でも使われているらしい。
登山口のある俵野の集落の北側に「可愛」という集落がある。読み方を聞いてみると「え」だそうだ。2文字で1音とはどういうことか不思議でならない。
山名以外にも山中の要所々々に付けてある地名プレートには珍しいものが多い。「ザレの頭」のようにその由来が地形等から推察されるものもあるが、
中にはさっぱり想像がつかないものも多い。歩きながらこの地名由来を考えるのは楽しい限りであった。以下にいくつか紹介しておきたい。

  
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2018年 11月14日・・・・2018年 度のNHK大河ドラマ「西郷どん」も終末を迎えるこの時期、友人2人と再度訪れる。

 大河ドラマのせいか、2年前とだいぶ様子が変わっていた。国道から日豊本線を渡るのだが、線路手前に第2駐車場ができている。
どうやら大型バスへの対応らしい。我々が下山して資料館に戻ってきた時も団体客が数十人見学中であった。
また、駐車場には真新しい大きなトイレが立てられている。さらに、案内ガイドの方が3人ほど待機しておられる。
 前回は資料館の方から丁寧な説明を受け、ゆっくりと質問もできたが、今の状況はちょっとした観光地の感がある。

今回も前回と同じく時計回りに周回したので、詳細は2016年のレポートと合わせて見ていただきたい。

西郷資料館駐車場10:00―197mピーク10:30―林道出合11:00―水場11:15―分岐11:40―鉾岩経由―
可愛岳山頂12:20(昼食)12:50―分岐13:15―烏帽子岳13:30―林道出合13:50―資料館駐車場14:15(全行程8.2km)





資料館駐車場にできていた大型トイレ。
桐野利秋宿営地の看板。南登山口はこの家のすぐ左側にある。
南コースの途中から可愛岳の山頂を望む。山頂部分が横に長く「柄」の形 をしていることから「えのたけ」となったとの説もあるらしい。




1時間ほど造林帯などの稜線を歩き、林道を過ぎると傾斜は急になり、ほ どなくして水場に着く。


水場からさらに傾斜が厳しくなるが、10分ほどで南コースの稜線上の分 岐点に到着する。
分岐点から鉾石を通り山頂に到着。南北の眺めは素晴らしい。前回は「覗 き」を通ってきたが、今回は道を見落としたのか通らなかった。


山 頂から見た大崩山方面。西郷らはこの山頂から一気に祝子川へと下り、上祝子の集落を経由し、鹿川越を超えて高千穂へと向かったらしい。生死がかかっている とはいえ、眺めただけで気の遠くなるような距離で、しかも悪路であっただろうことが想像できる。


北コースは稜線上を下る気持ちの良いコースである。 途中からは杉林が多くなる。このあたりでは杉の下にサカキなどが生えて おり美しい。
1時間ほどで林道に出る。ここまでは快適な下りだった。

林道出合から先は嫌な道である。道はあちこちで深くえぐれており、あた かも「排水路」の底を歩いている気分になる。何とも気分の悪い道だ。
資料館のすぐ手前には「熊本龍口隊隊長の中津大四郎自刃の地」との石碑 と標柱がある。「龍口隊」は熊本市子飼の「久本寺」に結集し、薩摩軍を支援してきた部隊らしい。

宮内庁の名前で「北川陵墓参考地」と記された看板がある。「ニニギノミ コト」の陵墓との言い伝えもあり、西郷は「この陵墓の前に陣を敷けば官軍は攻撃できぬ」と考えたらしい(パンフレットより)。


 西郷たちは薩摩の地を出発し、熊本、田原坂での敗戦の後は脊梁を超えて人吉、小林、宮崎、延岡へと敗走の末、当初数万の軍勢も最後には600人で
可愛岳を超えていったという。150年前の出来事が目の前に浮かぶような生々しさを持った山である。何とも悲しい。